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カテゴリ:昔の話( 20 )

Tränenpalast 涙の宮殿

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フィリードリヒ通り駅前のガラス張りのTränenpalast、壁が構築された翌年の1962年に建てられました。壁が崩壊してこの秋で26年、統一後、イベント会場として貸し出されプリンスなどのコンサート、クラブ、パーティー、オークションなどに使われたこの「涙の宮殿が」本来の国境検問所として再現されてるのは知っていました。2回傍を通ったので寄ったのが、月曜の休館日と閉館後で中には入れず、先日来伯したR君たちと散歩の途中で、やっと中に入れました。
上の写真、今でも空港のパスポートコントロールに「EU市民」「それ以外の国」などど記されてますが、書いてあるのは上から「出国、以下の市民、、」「ドイツ連邦共和国(西ドイツ)」「西ベルリン」「外国人」つまり東独国民以外、という意味です。
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名前の由来は、東独に入ることができた西の市民である家族や友人と、この国境で別れる場所だったからです。
僕も80年に西ベルリンに留学して9年間、壁のあった時代を経験していますから、この検問所を何度も通りました。
当時のベルリン、東西合わせてSバーン(地上を走る、JRのような電車)は東の運営で、西側も走ってました。地下鉄は西ベルリン内は全て西の運営で、東ベルリンの下を走るU6とU8は、これも西の運営でした。U8は通過するだけ、アレキサンダー広場駅もどこにも止まらず、ホームは閉鎖されていました。
U6はこのフリードリヒ通り駅を通ります。今ではKonzerthausやラファイエット最寄りのFranzösiche通り駅とか、周りも賑わっていますが、フリードリヒ通り駅以外の東ベルリン内のU6駅は道からの入り口は閉鎖され、ホームも立ち入り禁止になってました。その地下鉄に乗ると、薄暗いホームを通ります。ホームに一人、また一人と国境警備兵が立ってる姿を覚えています。こちらからは暗くて見えにくいけれど、ホームからは明るい車内はよく見えたことでしょう。
話が脱線しますが、87年にKONZERTHAUSが再建されオープンした時、マエストロA.ドラティとバルトークの「青髭公の城」で東独ツアーがありました。杮落としのシリーズでしたが、そのツアーでマグデブルクへ。医学生のコントラバス奏者と知り合い、彼の家に遊びに行ったことがあります。今思うと、秘密警察にきっとマークされてたんだろうな。何人かの友人が来ていていろんな話をしたと思いますが、その時に兵役の話になって(全員、兵役義務があります)一人は国境警備隊に志願していたと話しました。「え、なんで?」と問えば、ソ連の手下で人殺しすることになるかもしれない軍より、射撃の腕はかなり良かったので志願したんだそうです。でも、もしもの時は逃げようとする人を撃たなきゃならないでしょ?と言うと、射撃の腕は良かったから、疑われずに少し外して撃ちまくって、逃がすことができるから!と言ってました。そういう機会はなかったそうですが、それで国境警備隊に志願した、そういう兵士もきっと多かったんだろうな。
日本の戦時中、また今の紛争地区、そして冷戦時代。「おかしい」と思った「個人」はきっと多く、そしてでも国家の一員としてできることを全うしたのでしょう。その場、その時で自分に問いかけ最善を尽くすこと、大事ですね。
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中に入ると、周りに展示がある以外は、中央の検問施設は、当時のままに再現されていました。
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動画を見つけました、これは英語も表記され、旧東独国民のインタビューと中の様子がよく分かる映像です。


こちらは展示開始前日のニュース。ドイツ語だけですが、政治犯として亡命し、3年後に東独に残した家族をここで迎えた(当時、申請すれば、可能でした。西ドイツは予算を組んで、東独市民を代価を払い西に招く活動をしていました)




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by Toruberlin | 2015-08-09 09:03 | 昔の話 | Trackback | Comments(0)

これは、知らなかった。

東京裁判、「勝てば官軍」といえども、勝者主導の裁判である。

ポツダム会談然り、戦後処理と次の世代への「身の振り方」と「権力争い」であった。


日本は一億総玉砕するつもりだったから、原爆のおかげで終戦になり、結局はよかった。なんて意見も聞くが、そしてどうだったかなんてわからないけれど、この抗議文にもあるように、仕方なく起こってしまった戦争で(どんな理由でも愚かだから、決して始めてはならないけれど)武人(戦闘員)以外を対象にすることは、国際法であってはならない。


戦後の長い付き合いで、いろんな事情で同盟国のアメリカであるが、日本政府が70年前に送っていた至極まっとうな抗議文は、知っていた方が良いと思います。


不可侵条約を一方的に破棄して満州に攻め込んだ卑怯な国の例を挙げるまでもなく、中国国内の軍閥の争い(イデオロギーもですが)に敗戦後巻き込まれ、また戦争当事国ではないのに、シベリアに多くの日本兵が抑留された事実もあります。


戦後云々とか、過去を振り返る必要はない。(過ちを繰り返さないように学ぶのは大事ですが)

今はどうか?残念ながら、国防を、今は平和にずっと日々が過ぎてるからと考えないわけにはいかない。

70年の間、他国を侵略していないどころか交戦もしてない自衛隊。誇りです。

さらに増強して強力な抑止力になってほしい。

集団的自衛権、これも当たり前のことです。ただ、世界の平和のためという理由で紛争地域にまで出張っていくのは、是非とも国際社会に勘弁していただきたい、憲法違反と説明して。

そして、緩和しようとしてる武器の輸出にも絶対に反対です。人が幸せになるものを造って売って行くべきです。

自衛隊の装備は更なる開発があっても良いかとも思います、日本製で。でも理由をつけて、輸出して儲けることを考えてはいけない。今までだって、優秀なMade in Japanを改造しての武器といて使えるものは海外にありましたが、武器そのものを輸出してはならない。他の国がやってるから、は、詭弁です。今までやってこなかったことは素晴らしく、誇らしい。


もしアメリカと手を切る方が良いなら、もっともっと軍備が必要です。

同盟国でいる方が良い、そして当たり前のことながら、同盟国の領土、または艦船などが第三国に攻撃を受けたら、自衛隊は加勢するべきです、お互い様ですから。

だから、基本的には安保法案には賛成、それ以外にはない。

しかし、これだけ(政治的意図も、単に妥当政府も、いろいろ混ざってるけれど)反対が出てる結果、改正案で落ち着いてほしいと願うばかりです。

大金を使って、自衛隊が無用の長物であるのがベストです。いや、無用というのは「実戦」という面だけで、抑止力として、また災害時の心強い力として、存在してほしいです。


どこにも、「日本は怖くて手を出せない!」と認識させることが大事と思います。

世界中から同時に、軍隊や兵器が無くならないのなら。

それこそが、戦争回避の方法と、思っています。



広島と長崎破壊の後、すぐにスイスを通じて日本政府が米国政府に出した抗議文。


【米機の新型爆弾による攻撃に対する抗議文】


今月6日、米国航空機は、広島市の市街地区に対し新型爆弾を投下し、瞬時にして多数の市民を殺傷し同市の大半を潰滅させました。

広島市は、何ら特殊の軍事的防衛機能や、そのための施設を施していない普通の一地方都市です。

同市全体を、ひとつの軍事目標にするような性質を持つ町ではありません。

本件爆撃に関する声明において、米国トルーマン大統領は、「われらは船渠(せんきょ)工場および交通施設を破壊した」と言っています。

しかしこの爆弾は、落下傘を付けて投下され、空中で炸裂し、極めて広い範囲への破壊的効力を及ぼすものです。

つまり、この爆弾で、この投下方法を用いるとき、攻撃の効果を右のような特定目標に限定することは、物理的に全然不可能なことは明白です。

そして本件爆弾が、どのような性能を持つものであるかは、米国側は、すでに承知しているものです。


実際の被害状況は、広範囲にわたって交戦者、非交戦者の別なく、男女老幼を問わず、すべて爆風および幅射熱によって無差別に殺傷されました。

その被害範囲は広く、かつ甚大であるだけでなく、個々の傷害状況を見ても、「惨虐」なるものです。

およそ交戦者は、害敵手段の選択について、無制限の権利を有するものではありません。

不必要の苦痛を与えるような兵器、投射物その他を使用してはならないことは、戦時国際法の根本原則です。

そのことは、戦時国際法であるハーグ陸戦条約規則第22条、及び第23条(ホ)号に明定されています。

米国政府はこのたびの世界大戦勃発以来、再三にわたって、

「毒ガスその他の非人道的戦争方法の使用は文明社会の世論によって不法であり、相手国が先に使用しない限り、これを使用することはない」と声明しています。

しかし、米国が今回使用した本件爆弾は、その性能の無差別かつ惨虐性において、従来かかる性能を有するが故に使用を禁止せられをる毒ガスその他の兵器よりも、はるかに凌駕するものです。

米国は国際法および人道の根本原則を無視して、すでに広範囲にわたって日本の大都市に対して、無差別爆撃を実施しています。

多数の老幼婦女子を殺傷しています。神社や仏閣、学校や病院、一般の民家などを倒壊または焼失させています。

そしてさらにいま、新奇にして、かつ従来のいかなる兵器、投射物とも比べ物にならない無差別性、惨虐性をもつ本件爆弾を使用したのです。

これは、人類文化に対する新たな罪悪です。

日本政府は、ここに自からの名において、かつまた、全人類、および文明の名において、米国政府を糾弾します。

そして即時、かかる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求します。

昭和20年8月11日

PUBLIC INTERNATIONAL LAW - ATOMIC BOMBING OF HIROSHIMA AND NAGASAKI WAS AN ILLEGAL ACT IN VIOLATION OF INTERNATIONAL LAW.

The Japanese Government presented a letter of protest as stated below, to the Government of the United States through the Government of Switzerland on August 10, 1945.

August 10, 1945

A New-Type, Cruel Bomb Ignoring International law; Imperial Govern-ment Protest to the Government of the United States.

With regard to the attack by a new-type bomb on the city of Hiroshima by a B-29 bomber on the 6th inst. the Imperial Government filed the following protest on the 10th inst. to the Government of the United States through the Government of Switzerland, and gave instructions to the Japanese Minister to Switzerland, Kase, to make the explanation of explanation of the same effect to the Inter-national Committee of Red Cross.

Protest against the Attack of a New-Type Bomb by American Airplane:

On the 6th of this month, an airplane of the United States dropped a new-type bomb on the urban district of the city of Hiroshima, and it killed and wounded a large number of the citizens and destroyed the bulk of the city. The city of Hiroshima is an crdinary local city which is not provided with any military defensive preparations or establishments, and the whole city has not a character of a military objective. In the statement on the aerial bom-bardment in this case, the United States President “Truman” asserts that they will destroy docks, factories and transport facilities.

However, since the bomb in this case, dropped by a parachute, explodes in the air and extends the destructive effect to quite a wide sphere, it is clear to be quite impossible in technique to limit the effect of attack thereby to such specific objectives as mentioned above; and the above efficiency of the bomb in this case is already known to the United States. In the light of the actual state of damage, the damaged district covers a wide area, and those who were in the district were all killed indiscriminately by bomb-shell blast and radiant heat without dis-tinction of combatant or non-combatant or of age or sex. The damaged sphere is general and immense, and judging from the most cruel one that ever existed. It is a fundamental principle of international law in time of war that a belligerent has not an unlimited right in chosing the means of injuring the enemy, and should not use such weapons, projectiles, and other material as cause unnecessary pain; and these are each expressly stipulated in the annex of the Convention respecting the Laws and Customs of War on Land and artices 22 and 23(e) of the Regulations respecting the Laws and Customs of War on Land. Since the beginning of the present World War, the Government of the United States has declared repeatedly that the use of poison or other inhumane methods of warfare has been regarded as illegal by the pubic opin-ion in civilized countries, and that the United States would not use these methods of warfare unless the other countries used these first. However, the bomb in this case, which the United States used this time, exceeds by far the indiscriminate and cruel character of efficiency, the poison and other weapons the use of which has been prohibited hitherto because of such an efficiency. Disregarding a fundamental principle of international law and humanity, the United States has already made indiscriminate aerial bombardments on cities of the Empire in very wide areas, and it has already killed and injured a large number of old people, children, and women and collapsed or burned down shrines, temples, schools, hospital and ordinary private houses. Also, the United States has used the new bomb in this case which has indiscriminate and cruel character beyond comparison with all weapons and projectile of the past. This is a new offence against the civilization of mankind. The Imperial Government impeaches the Government of the United States in its own name and the name of all mankind and of civilization, and demands strongly that the Government of the United States give up the use of such an inhumane weapon instantly.

Note: Japan Branch of the International Law Association, Japanese Annual of International Law, 8, pp.251-2. (Tokyo: 1964)



by Toruberlin | 2015-08-06 23:59 | 昔の話 | Trackback | Comments(0)

1989年11月9&10日。

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ベルリンフィルのフルトヴェングラー時代からカラヤン時代(退団時はアバド時代)の第1首席コントラバス奏者だったF.ヴィット先生に薫陶を受けるべくベルリンに来たのが1980年。東京生まれで東京育ち、いや、ほとんどの日本人と同じく国境を見たことがない僕にベルリンの壁があった西ベルリンへの留学は衝撃的でした。
留学当時はCanonのオートボーイ、そして父のオリンパスPen-EEを持って行きましたが数年後にタイプラーターからオールドカメラへと興味が広がり80年代半ばには多くの趣味の筆頭がカメラでした。
C.Zeissをはじめとした蛇腹カメラから始まり一眼レフはZeissContaflex、これで銀塩時代に撮りまくりました。
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写真は1989年の11/10、壁崩壊の翌日です。有名な夜に壁の上に多くの人が登ってる光景の翌日です。壁は開いたけれど(不思議は偶然で、そして発砲もなかった!)まだ国家は2つあり、壁は東独のモノでした。でもその上に並んだ国境警備隊員たちの顔に険しさはない。皆、自分が生きてる間に起きるとは思っていなかった大きな出来事を、まだ信じられないという感じでした。
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by Toruberlin | 2015-07-30 14:57 | 昔の話 | Trackback | Comments(8)

AMERICAN SAMPLER by V.&Boch

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このカップ、アンティークじゃなく新品で買いました。いや、正確に言えば80年にベルリンに来て、最初のオケのギャラ(ベルリンフィルの出演料)で確か購入したのがこのシリーズでした。
これもまだ持っている、背が高めのマグカップ2つ、そして(かなり高価だった←当時の僕には)コーヒーポットが最初です。
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V.&Boch社は定番の他に限定シリーズを出す会社で、このAmerican Samplerもそうでした。1981年に発表だそうで購入したのは84年。そして写真のソーサー付カップを欲しいと思った時には、すでに完売して取り寄せるのも無理でした。
「欲しい!」と思ったものは、その時のタイミングが大事と知った、一事でありました。
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by Toruberlin | 2015-07-10 23:59 | 昔の話 | Trackback | Comments(0)

1980年代。

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二日続いて懐かしい写真たちです。
これはBerlinerKammeroper(ベルリン室内歌劇場)で首席KBだった頃だから80年代の後半です、僕は27-8歳。ベルリンの壁崩壊がもしなければ(もしという仮定は人生には無いですが)西ベルリンで結成されてこの時すでにクロイツベルクの工場跡に素晴らしい練習所を持ち西ベルリン市から多額の援助を受け(スタンウエイの新品のCも入っていた)公演したバロックからクラシック初期のオペラは(ヘーベル劇場がメイン)大盛況で、西ベルリン市立室内歌劇場になる予定でした。西にはドイチェオーパーとZOO駅前のTdWしか無かったのです。壁崩壊から統一で東のStaatsoperとKomischOperが加わりベルリンは世界でも稀な大きなオペラハウスを3つ持つ街となり、BerlinerKammeroperが市立になる予定は、無くなりました残念ながら。
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オケは20人くらいのコアメンバーでKBは僕だけ、同世代の仲間が多くイギリス人のソロチェロ、また今はマーラーチェンバーに居るKとかとご機嫌なアンサンブルでした。カラヤンアカデミーをWitt先生が辞めてしまったこと(それでもゲストとしては弾けたから良かったけれど)シュトールさんが推薦してくれたベルリンフィル二年契約が(ひとりの)強硬な反対で却下されたこと、このベルリン室内歌劇場の市立団体への昇格ならず、これが80年代、僕の20代の三大受難だったかな?ま、大したことではないですが、、。
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NDRのクリューガーさん、コンサートの後に郊外のお屋敷に兄と当時の兄のオケの首席奏者のハイナーとご招待いただいた時です。エッカハルト(クリューガーさん)は数年前に、ハイナーは5月末に他界しました。ハイナーは亡父と生まれ年が同じで、少し前まで頻繁に電話をくれていました。ハンブルクにいつ来るんだ?!と言われ続けて結局、会えなかったなー。
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ベルリンフィルしかオケを知らなかった(生意気な)僕に、オケでの弾き方や態度などなど、教えてくれた先輩方です。
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場面変わって、これも87年頃か?Junge Deutsche Philharmonieのツアー、バスで移動中。85年のアメリカツアー三週間もバス移動が多く(途中一泊とか)ものすごい演奏旅行でしたが(ホテルの部屋でソリストG.クレーマー氏と夜中呑んだり)若い頃の移動はこんな感じでした。しかも周りは男ばかり、うん、ずっとそうだったなー。
それが楽しかった。
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by Toruberlin | 2015-07-02 23:59 | 昔の話 | Trackback | Comments(0)

ダッフルコートとLoriot+ベルリンフィル。

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月曜日はアンペルマンレストランでマルコスと打ち合わせ&試食、そして料理などの写真撮影もしてきました。
この日は車なしで出かけたのですが帰り道、空気の感じが良くてMitte界隈をNEX6+Nikkor28mmで少し歩きました。
アンペルマン本店はお客さんが誰もいなかったのでスタッフ二人、あとからショップマネージャーも加わって店の最近の様子を聞きました。
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壁崩壊25周年記念エコバックは相変わらず人気です。最初の5000は秋に売り切れ、第二弾はまだ充分にありますが次の節目は10/3の統一25周年、それまでは保たないと思いますが再々オーダーは多分しません。ベルリンのアンペルマンショップにおいでになったらお忘れなく。私の発案だからというわけじゃないですが出来もとっても良い!イチオシです。
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中央の一番目立つ場所に、プリンセスフラウと「思い出の先にはいつも家庭料理」(プリンセス・ノブコ著作)そしてベルリン中央区と今年姉妹都市20年を迎える津和野町を走ってる6台のアンペルマン町営バスのキーホルダー/ストラップが並んでいます。
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本店を出て裏道へ、さて、どうしよう?
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by Toruberlin | 2015-02-05 08:08 | 昔の話 | Trackback | Comments(0)

1980年代の写真。

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週末、銀塩フィルム写真の整理をしていました。ふた晩続けて朝まで起きていた日です。その目的はWitt先生との写真でしたが片付けと同じく、昔の写真がいろいろと出て来ました。
ちょっと前に車の話をしました。
免許をベルリンで取得(まだ日本国内の公道で車を運転したことはありません)最初の車はAudi80でした、緑色の。
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この写真、西ベルリンから西ドイツのデトモルトに向かったときドライリンデン検問所での写真です。この広い場所は現在は倉庫やオフィスが並んでる、Wannseeからアウトバーンでベルリンを出てすぐ右の場所です。当時はアウトバーンは直進が通行止めで、このゾーンからずらっと並んだ検問所を通り、そしてトランジットという東独のアウトバーンを走り、また西ドイツに入る国境で検問所を通ってました。僕の2台目となったのが黄色いBMW320、これはその車から当時のオーナー、KBのO西さんの撮影です。1983年かなー?
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by Toruberlin | 2015-01-25 23:55 | 昔の話 | Trackback | Comments(0)

ベルリンで運転免許を取得したころ。

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30年以上前の話です。
高校出て1年余りドイツ語を集中的に学んでベルリンへ、1980年の秋でした。
Witt先生のお住まいは西ベルリンの南西の外れ、ポツダムの手前のWannseeという大きな湖の畔です。西ベルリン時代には渋滞という言葉はベルリンにはなく、世界で唯一の郊外を持っていない大都市ですからアウトバーンを使ってハンブルクやミュンヘン、またはハノーファー方面に東独を抜けていく箇所がヴァカンスの初めと終わりには混みましたが、日常生活では渋滞は皆無で走りやすい街でした。
83年に免許取得するまでは弓だけ持ってレッスンに通っていました。今は日本のオケが所有してるGiovannetta di Luccaというイタリアンを使わせていただいてました。
ベルリンフィルの本番前の夕方にレッスンしていただき,そのままカラヤンの本番に先生の車で連れて行っていただくこともしばしでした。いくら渋滞がないと言っても、本番開始の1時間前にお茶を飲み始めることもよくありこっちがヒヤヒヤしましたが、燕尾服の上着だけがフィルーモニーに置いてあり、あとは着替えて出かけるとは言っても40分前に出発、空いてる道をすっ飛ばして20分後には舞台で楽器に触っていました。
今ならWannnseeからなら早くて40分、普通は一時間はかかるから、のんびりした良い時代でした。
人口が200万人くらいで急な人や車の出入りがない時代、壁崩壊から今まで、少し状態は変われど当時が如何に空いていたかは懐かしく思い出されます。
免許を取ってすぐの車がAudi80のオートマ、緑色でした。これは友人の車を500マルクで譲ってもらったからで、最初の練習には良い車でした。拙宅は西ベルリンの中心、今でも東京の山手線の様なRingの内側ですが、そこからなら30分で行けない場所はなかった、そんな西ベルリン時代に免許を取って運転していたのは幸せでした。
そのAudiでレッスンにも行ってたのですが、ある夏の日、帰りにハーフェル川に沿った森の中を走る道を選びました。遠回りではないのですが、アウトバーンで帰れば10分、湖畔の道は30km/h制限で途中で散歩しなくても1時間近くかかりましたから気分の良い時専用です。
その日、湖畔を走り始めたら後ろからバイクの群れが向かってくるのがバックミラーに見えました。車は前後見ても僕のだけ、平日の夕方、誰もいません。
その頃、日本はまだまだ暴走族の全盛期、留学前に友人の車で六本木とかから帰るとき、蔵前通りや千葉街道で何度も駐車して族をやり過ごしたことがあります。できれば出会いたくない暴走族、そう言えばベルリンでは見たことがなかった。
すぐ後ろに10数台固まって、やばいなー!と思いながらウインカー出して減速しました。一台また一台と追い越して行って、写真の様な景色が前に広がります。こちらを見ずに、因縁つけられも車を蹴られもせず、そして最後の一台が隣りに来るなり
「ありがとう!良い一日を!」と笑顔で手を振ってくれました。

後で訊ねたら、やはり日本のような暴走族はドイツにはなかった。固まって走ってることも滅多になく、ハーレーの愛好家たちがHEの革ジャン着て走ってるだけ、という感じらしいです。
しかし、かなり焦った数分間でした。





by Toruberlin | 2015-01-12 20:09 | 昔の話 | Trackback | Comments(0)

(続)愛車

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まだiPhoneからです。愛車と言えば3台目、ミニの前のBMW316です。最初のAudi80は練習用で一年弱、次の320も短かったですが、この316は長くお世話になりました。やはり最後の問題はサビでしたが手に入れた時は綺麗で新車の様でした。
まだ壁があった85年頃ですからフランクプルトでグスティたちとクインテットで一年間劇場出演してました。東独を抜けて月に数回、それ以外にもドイツ中を走り廻った相棒です。
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FRだから雪には強くない。アウトバーンで走行中にハンドル動かしてないのに車線変更して難を逃れたり、ハンブルグからの帰り、夜中に大雪でスピン、廻った先のガードレールに激突⁈のところ、それが2mくらい欠落した中央分離帯の雪に突っ込んで止まり、その直後、反対車線をトラックが通過!とか、何かを持ってる車でした。
義父が現役警官だったころで知り合いの車屋さん(Butterbrot)で対面したんですが、シルバーに輝く二つ目との初対面、よく覚えています。
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愛車と言えば、自分のじゃないですがイタリアで乗るのは大抵フィアット500、新車で1番好きな1台です。
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イタリア、行きたいなー!ZTLで多額の罰金請求が来たローマでしたが、とびきり楽しい一週間でした。
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by toruberlin | 2014-08-11 23:59 | 昔の話 | Trackback | Comments(0)

東京の東端、小岩にて。

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小岩の実家から徒歩5分、帰国すると必ずご挨拶に伺う氏神様、小岩神社です。5歳の筈ですから1965年の秋ですね。
モノクローム写真、これは何で撮ったのかなー?僕が覚えてるのは(今も手元にある)オリンパスのPEN EEですが、あれはきっと数年後の筈。
いや、いま調べたらEEは1961年発売、あれで撮ったのかー!
そのプリントをNEX6にトミーテックのヘリコイド+Nikonの引き伸ばしレンズEl Nikkorで撮影しました。
これはコピーの様な撮影ですが、以前はよく写真を撮っていました。プリントされた写真を更に撮影する、もちろん空間も入れ込んで。なかなか良くて好きでした。そういうことをする時間の余裕、持たなくちゃなー。
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今でも実家にある石灯籠、その右は小さな池でした(僕が落ちるから蓋をしてある)。家は宮大工の祖父が建てた昭和4年のまま(改築はされましたが)なので庭も基本的には今も同じです。
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by Toruberlin | 2014-07-31 20:37 | 昔の話 | Trackback | Comments(4)